ヘレン・ケラーに学ぶ現在の自然言語処理に欠けている重要なもの1

ヘレン・ケラーに学ぶ現在の自然言語処理に欠けている重要なもの1

2018.02.05
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ヘレン・ケラーの「奇跡の人」を見たのは、たしか、小学校の映画観賞会でした。
当時は、まだ吹替が普及してなくて、その代わりに映画のセリフをマイクで言ってくれる活動弁士が来ていました。
弁士はおじいちゃんで、出演者全員のセリフを声色を変えて話すのですが、小さい女の子のセリフまでダミ声になったりしていましたが、すぐに慣れて、子供ながらにうまいもんだなぁと思ったのを覚えています。
その弁士は、日本で最後の活動弁士と紹介されていましたが、これは、映画発祥の地、神戸ならではの光景だったのかもしれません。

さて、ヘレン・ケラーは、ご存知の通り、目が見えず、耳が聞こえず、話すこともできない三重苦で有名な人です。
「奇跡の人」で印象深いシーンは、やはり、ラストで、ヘレンが井戸の水を手で受けて、「ワーラー、ワーラー」(water)と叫ぶシーンです。
見ることも、聞くこともできないため、言葉を理解できなかったヘレンが、物には、名前があるということに初めて気づいた感動的な瞬間です。

 

僕が、AIの研究を始めたころ、「心とは何か」とか、「動物と人間の違い」、「言葉とは何か」といったことを知りたくて、認知科学や言語学だけでなく、チンパンジーに言葉を教えた研究だとか、自閉症患者が書いた本、オオカミに育てられた少女の記録とか、そんな本を読み漁っていました。
そんな時、ヘレン・ケラーの場合はどうだったのかと思い出して読んだのが、ヘレン・ケラーの自叙伝「わたしの生涯」でした。

実際に読んでみると、「奇跡の人」のラスト・シーンが、覚えていた話と少し違うのです。
違うというか、さらに重要なことがその後に起こっていたのに気づいたのです。
すべての物には名前があると気づいた、その10分後、最も重要なものを取り戻したのです。

それは、一言でいえば、人間の「」です。
ただ、その重要性は、ヘレン本人も自覚していなかったようで、ほんの1行、触れられていただけです。

人間と動物の最も大きな違いは言葉をしゃべるか、しゃべらないかです。
人間らしい心の根本的な原因は、言葉が関係しているといことはなんとなくわかっていましたが、その関係がもやもやしてわからず、そのことをずっと考えていた僕は、その1行を読んだとき、「あっ、なるほど、そういうことだったのか」と深く納得したのを覚えています。
「言葉-心-意識」の3者の関係が霧が晴れたようにすっきりとつながって見えてきたのです。

言葉と心の関係。
これがわかっていないと、いくらAIで言葉が話せるようになっても、人間のような心は生まれません。
そこで、今回から、ヘレン・ケラーを通じて見えてきた、言葉と心の関係について説明します。

 

まずは、ヘレンが言葉を理解し、人間の心を取り戻したあの日。
その日の朝に起こった出来事から見ていきましょう。

数週間前から、サリヴァン先生は、物には名前があることをヘレンに理解させるために、物に触れさせると、その名前のスペルをヘレンの手のひらに指で綴って教えていました。
頭のいいヘレンは、すぐに真似できるようになりましたが、まだ、物の「名前」の本当の意味を分かっていません。

前日には、カップに入った「水」と「カップ」の違いを教えようとしましたが、ヘレンは、その違いをうまく理解できませんでした。
その日は、新しい人形をヘレンに与え、「doll」と教えていました。
今までの人形と違う人形でも、同じ「doll」だということを教えようとしたのです。

ところが、ヘレンは、その新しい人形が気に入らないらしく、思いっきり床にたたきつけて、壊してしまいます。
当時、7歳のヘレンは、嫌なこと、自分の思い通りにならないことがあるとすぐに癇癪を起こす子供でした。
障害を理由に、親から甘やかされてわがままに育てられていたからです。

床にたたきつけて砕けた人形の破片を足先に感じて、痛快に思ったそうです。
そのあと、サリヴァン先生が帽子を取り出す気配を感じて、次は、外に出かけると感じて躍り上がったそうです。

これが、言葉を理解していない時のヘレン・ケラーです。
気に入らないことがあればすぐに怒り、楽しいことがあればすぐに喜ぶ。

その場の気分で行動する様子は、人間というより、動物に近いといえます。
その彼女が、その日の午後、井戸の水に触れた瞬間から大きく変わるのです。

 

 

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