チューリング・テストと心の仕組み。

チューリングテスト

 

チューリングテストとは、コンピュータの父、アラン・チューリング(1912-1954)が考案した人間か人工知能かを見分けるテストです。
アラン・チューリングは、計算の概念を定式化したチューリング・マシンを提唱した数学者として有名で、チューリングの名が冠されたもう一つの有名な用語がチューリング・テストです。

チューリング・テストといえば、SF映画の傑作「ブレード・ランナー」(1982)が思い出されます。

ブレード・ランナーは、レプリカントと呼ばれる人間そっくりのアンドロイドが脱走し、それをハリソン・フォード扮する捜査官が追いかけるというストーリーです。そして、容疑者がレプリカントか人間かを判別するためにチューリング・テストが使われました。

映画の中のチューリング・テストは、簡単な質問を投げかけて、瞳孔の変化などを観察するというものです。
家族や生い立ちなどの質問をした後、最後に、人間ならぞっとするようなオチの話をさりげなくして、無反応なのを確認するといったシーンに思わずニヤリとしました。

 

 

さて、映画では、レプリカントが見た目だけでは人間と区別がつかないということが前提でしたが、実際のチューリング・テストは少し違います。

チューリング・テストで判定しようとしているのは人間の心です。
姿形は関係ありません。
そこで、チューリングが提案した方法は、チャットのようなシステムを使うことです。

2台のチャットシステムを用意し、1台は人間が回答し、もう1台は人工知能が回答します。
そして、複数の人間がチャットを介して二人に質問します。
どちらが人間でどちらが人工知能かは、質問者にはわからないものとします。
いくつか質問をした後、最終的に、こっちが人間でこっちが人工知能だと投票するわけです。

そうやって、人間と人工知能とに票が真っ二つに割れれば、その人工知能は、人間とも人工知能とも区別がつかず、人間と同じ心を持っていると判断されるわけです。

 
このチューリング・テストで違和感を感じるところは、テストに人間が組み込まれていることです。
人間か人工知能か判断するのが人間なのです。
人間の判断は曖昧ですし、科学的とは思えません。
厳密にテストするのであれば、もっと他の方法で科学的に測定して判定すべきです。

たとえば、「ある周波数の脳波が出ていれば、心が存在する」といったことなら、科学的だといえます。
客観的に確認できる事象です。
しかし、チューリングはこのような方法を採りませんでした。

いったい、なぜ、チューリングはこのような曖昧なテストを考案したのでしょう。
それには、そうせざるを得ない理由があります。
そのことを説明するために、まずは、心のモデルと似ているインターネットの仕組みについて説明します。

 

インターネット・プロトコル

インターネットは、OSI参照モデルと呼ばれるデータ通信の仕組みに基づいて通信が行われています。

 

OSI参照モデルは、複雑な通信を階層に分けることで、各階層では簡単なルールであっても、全体としては複雑な通信が行われるようになるというものです。

さて、OSI参照モデルですが、互いに通信できるのは同じ階層同士だけです。
たとえば、中間層は、パケットを正しい順序で送り届ける働きをしていて、データの中身が何かまでは気にしません。
データの中身を気にするのは、上位の層だからです。
最上位のアプリケーション層がメール・プロトコルだったらメールを送受信し、HTTPだったらホームページを送受信するというわけです。

データ通信はデジタルデータですので、見た目は0と1の数字の羅列です。
流れるデータをみただけでは、何が行われているのかさっぱりわかりません。
しかし、その中身は、このように階層に分かれて、それぞれの階層のルール(プロトコル)に従って通信しているのです。

人間が行うコミュニケーションも、このデータ通信モデルに当てはめて見てみると、人間の心の構造が浮かび上がってきます。

 

 

まず、人間は言語でコミュニケーションしますが、言語も階層構造になっていると考えられます。
言語は、口頭でのコミュニケーションだけでなく、文章であったり、手話であったり、様々な形態があります。
また、言語には、英語や日本語といった種類があり、それぞれ異なった文法が存在します。

言語コミュニケーションでは、口頭か、文章か、手話かといったことが最下層となり、その上の層に、英語か日本語、文法といったものになります。
そして、全体をコントロールする最上位の層が、「心」となります。

 

言語コミュニケーションでは、下位層から受け取った言語を解釈し、言葉の意味を理解します。
最終的に言葉の意味を理解するのが最上位の「心」です。
「心」の機能とは、「感情とは 認知パターンって何?」で詳しく説明したように、感情の抽出です。
心は、自分にとって損か得か、相手にとって損か得かなどの情報を認知パターンに当てはめ、善悪、倫理、感情などを抽出し、それに基づいて行動を決定するのです。

 

この最上位の心の機能を持った者同士がコミュニケーション可能で心を通わせることができるというわけです。
同じ機能を持っていなければ互いに理解できません。

具体例を挙げてみましょう。
分かりやすくするために、オオカミの心を考えてみます。

オオカミは羊を襲って食べます。
お腹がすいていれば、羊を見つけたら捕まえて食べます。

人間には慈悲の心があります。
これは、弱いものは助けるべきという認知パターンといえます。

 

 

しかし、オオカミの心にはそんなルールはありません。
傷ついて弱っている羊とか、子羊がいたとしても、何も考えずに襲って食べます。
弱ってる者を捕まえるのは卑怯だとか、子供だから逃がしてやろうなんて考えません。
考えるとか考えないとかじゃなく、「弱い者は助けるべき」といったルールを持ってないので、そういった概念自体を理解できないのです。

オオカミにとっては、
「現在の自分の状態が空腹(不快)で、羊がいれば捕まえる。うまく捕まえて食べれれば満足(快)する」という
「不快を避け、快を求める」
というルールしか存在しないからです。

これが、人間だと、「子供を食べるのはかわいそうだから逃がしてやろう」といった意味が理解できるわけです。
人間は、オオカミはお腹がすいたから羊を襲って食べるという意味がわかりますが、オオカミは、子羊なら逃すという心理が理解できません。
人間もオオカミも、「不快を避け、快を求める」という下位のルールを理解できますが、オオカミは、善とか悪といったそれより上位のルールを理解できません。
つまり、最上層のある「心」が異なると、互いに理解できず、心が通ったコミュニケーションができないということです。

 

さて、話をチューリング・テストに戻します。
チューリングは、人工知能に心があるかないかをテストするのに、なぜ、テスト自体に人間を組み込んだのでしょう。

人工知能に人間と同じ心があるとすれば、その心のモデルの最上位層には、人間と同じ心のルールが備わっているはずです。
人間と同じ心のルールを備えているのであれば、相手の言いたいことが理解でき、会話が成立するわけです。

ここが、チューリング・テストの最大のポイントです。
人間と同じ心が備わっているかどうかは、人間の心にしか判断できないということです。
これがチューリング・テストに人間が組み込まれている理由なのです。

 

コミュニケーションとは、同じ通信ルールを持つ者同士の情報のやり取りです。
同じルールを持つ者同士が、相互に情報を交換し合うエコシステム。
この見方が重要なのです。

心や意識を考えるとき、意識を単体としてとらえるのでなく、意識を持つ主体、つまり人を含むエコシステムとしてとらえる必要があるのです。
このシステムを心のエコシステムと呼ぶことにします。

 

伝統的な科学は、還元主義です。
還元主義とは、対象を、それを構成する要素まで分解すれば理解できるとする考えです。
意識を発生する最低限のニューロンを探そうとするのが還元主義的な意識へのアプローチです。
しかし、意識とは、特定のニューロンに宿るといったものではないと僕は考えます。

還元主義でなく、脳全体をシステムと捉えて、脳全体を解明することで意識を解明しようとするアプローチもありますが、これでも、まだ、意識を解明するには対象が狭すぎます。
つまり、人の脳を完全に再現できたとしても、人と同じ意識が宿るとは限らないのです。

たとえば、野生の猿や、狼に育てられた赤ちゃんの話があります。
生まれてすぐに捨てられ、野生の動物に育てられた子どもです。
ある程度の年齢になってから人間社会に戻った場合、いくら教えても、普通に会話できるようにならない例が報告されています。
これは、脳は人と同じだとしても、人とコミュニケーションを取らずに育つと、人と同じ心が生まれないことを示しています。

猿や狼に育てられることで、心は、その動物のレベルまでしか育ちません。
後から人が教育したとしても、人と同じレベルまで心が育たないということです。

つまり、人と全く同じ脳機能を持つAIを作っただけでは、人と同じ心が宿るとはいえません。
人と普通に会話し、人と同じ心や意識を作るためには、単体としてのAIを開発するのでなく、人を含んだ心のエコシステムの中で開発するというアプローチが必要なのです。

人の心と共通のルールを持つことで、人と理解し合い、自然な会話ができるAIとなり得るのです。