哲学的ゾンビは、クオリアの夢をみるか?1
「フレーム問題」「シンボルグラウンディング問題1、2」と「AIの未解決問題」に続いて、前回の「クオリア」から「心の哲学」の問題に入りました。
「心の哲学」は、「AIの未解決問題」に比べて哲学よりの話となりますが、コンピュータで心や意識を実現するのに避けては通れない議論が多いです。
今回は、「心の哲学」の中でも有名な「哲学的ゾンビ」の話をします。
まずは、いつものようにWikipediaから引用してみましょう。
哲学的ゾンビ(Neurological Zombie)
脳の神経細胞の状態まで含む、すべての観測可能な物理的状態に関して、普通の人間と区別する事が出来ないゾンビ。
哲学的ゾンビという言葉は、心の哲学の分野における純粋な理論的なアイデアであって、単なる議論の道具であり、「外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験(意識やクオリア)を持たない人間」という形で定義された仮想の存在である。
哲学的ゾンビが実際にいる、と信じている人は哲学者の中にもほとんどおらず「哲学的ゾンビは存在可能なのか」「なぜ我々は哲学的ゾンビではないのか」などが心の哲学の他の諸問題と絡めて議論される。
仮に“哲学的ゾンビが存在する”として、哲学的ゾンビとどれだけ長年付き添っても、普通の人間と区別することは誰にも出来ない。
それは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。
物理的化学的電気的反応としては、普通の人間とまったく同じであり区別できない。もし区別できたならば、それは哲学的ゾンビではなく※行動的ゾンビである。
しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビにはその際に「楽しさ」の意識も、「怒り」の意識も、議論の厄介さに対する「イライラする」という意識も持つことがなく、“意識(クオリア)”というものが全くない、という点である。
哲学的ゾンビにとっては、それらは物理的化学的電気的反応の集合体でしかない。※行動的ゾンビ(Behavioral Zombie)
外面の行動だけ見ていては、普通の人間と区別できないゾンビ。
解剖すれば人間との違いが分かる可能性がある、という含みを持つ。引用おわり
「哲学的ゾンビ」は、物理主義を批判する思考実験のために考案されたものです。
物理主義とは、この世のあらゆるものは物理法則で説明できるとする考えです。
「哲学的ゾンビ」を使った物理主義の批判とは、以下の通りです。
1.意識やクオリア、さらには、楽しさ、怒り、イライラといった内面的経験は、我々自身がリアルに感じていているもので、間違いなく存在します。
2.内面的経験は物理法則で説明できません。
3.「哲学的ゾンビ」は、見た目、ふるまいは普通の人間と全く同じで、全ての行動が物理法則で説明できる存在です。
4.もし、「哲学的ゾンビ」が存在するなら、我々は、内面的経験を持たない「哲学的ゾンビ」となります。
5.しかし、我々は、間違いなく、内面的経験を持っています。
6.以上のことから、意識やクオリアといった物理法則で説明できないものが存在するといえます。
これが、「哲学的ゾンビ」を使った物理主義批判です。
それでは、物理法則で説明できない心や意識とは、どうやって説明したらいいのでしょうか?
科学では説明がつかないので、霊や魂といったものが必要なのでしょうか?
今回のテーマはここです。
量子力学と相対性理論で幕開けした20世紀科学は、物理科学の時代といえます。
20世紀の終り頃から脳科学が急速に発展し、21世紀は、いよいよ、物理では扱えない心や意識を扱う時代になると言われています。
物理法則が及ばない心や意識を、どうやったら扱えるのでしょう。
我々は、毎日、「次の仕事は、うまくいくかなぁ」と心配したり、「昨日の仕事は、失敗したなぁ」と後悔したり、いろんなことを考えています。
我々の関心事のほとんどは、こういった感情で表されます。
でも、心配や後悔といった心の悩みは、物理の方程式で解くことはできません。
心や意識をもったAIを作るには、心や意識を理論的に扱えなければなりません。
この問題に対して、ロボマインド・プロジェクトがどのように解決したかについて説明します。
ロボマインド・プロジェクトが想定する心のシステムは、目で見たり耳で聞いたりした外部世界を、仮想世界としてシステム内に再構築します。
意識のプログラムは、再構築した世界を認識します。
つまり、意識は、外の世界を直接認識することはせず、自分で再構築した仮想世界を認識するのです。
ただし、意識は仮想世界を認識しているとは気づかず、自分では、世界を直接認識していると思っています。
この心のモデルは、「意識の仮想世界仮説」に基づくものです。
仮想世界を構成するのはクオリアです。
意識が認識できるのはクオリアだけです。
意識は、クオリア単位でしか認識できないのです。
「クオリア体験と僕が幽体離脱した話2」で説明したように、「顔」というクオリアは、目や鼻といったクオリアから合成され、目や鼻のクオリアは、丸や三角、直線といった原始的なクオリアから構成されます。
意識は、顔の目に注目したり、目の眼球の丸さに注目したりできますが、これは、目のクオリア、丸のクオリアに注目していると言えます。
クオリア単位でしか認識できないとは、こういうことです。
クオリアは、物の形だけではありません。
何かいいことがあると嬉しくなります。これは「嬉しい」のクオリアです。
何か悪いことがあると悲しくなります。これは「悲しい」のクオリアです。
過去の失敗を悔やむのは「後悔」のクオリアがあるからです。
未来を信じることができるのは、「希望」のクオリアがあるからです。
ロボマインド・プロジェクトでは、これらを「認知パターン」と呼んでいます。
人は、共通の認知パターン(クオリア)を持っていて、自分と同じ認知パターンを持っている者同士は、その認知パターンを使ってコミュニケーションが取れます。
こうやって共通の認知パターンでコミュニケーションを取る生態系を、「心のエコシステム」(「チューリング・テストと心の仕組み(心のエコシステム)」参照)と呼んでいます。
さて、物理主義の人たちは、この世に存在する物は、全て物理法則の影響を受けているので、あらゆる物事は物理法則で説明できると主張します。
これに対して、ロボマインド・プロジェクトは、どう答えるでしょうか?
それは、我々の意識が認識するのは、仮想世界であると。
仮想世界は、外の世界を仮想的に再構築した世界であるので、外の物理世界と縁が切れていると。
仮想世界は、物理世界と絶縁されていると。
意識が認識する世界は、物理世界と直接つながっているわけではないのです。
だから、意識や心、感情といったものは、物理法則では説明できないのです。
心の世界は、物理世界とは全く別の法則に従って動いているのです。
心の世界は、感情で動きます。
価値のあるものを得ると「嬉しい」と感じます。
人から価値のあるものをもらうと、その人に「感謝」します。
人の役に立つことをするのは、「善い」行いです。
人は、「善い行い」をすべきで、「悪い行い」をすべきでないと感じます。
こういったことが、心の法則です。
心の法則は、物理世界と絶縁された心の世界で成り立つ法則です。
複雑な時計やコンピュータの動きは、物理法則で解明できます。
時計やコンピュータを作るには、物理法則を理解する必要があります。
同じように、人の心は、心の法則で動いています。
人の心と同じAIを作るには、心の法則を解明する必要があります。
心の法則に従って動く心のプログラムを作る必要があるのです。
運動会で一等を取って喜んだり、女の子に振られて悲しんでる友達と一緒に泣いたり。
そんなロボットがいれば、きっと、心があると思うでしょう。
だれも、哲学的ゾンビとは思わないでしょう。